僕の音楽史(108)
メセニーの「ジェイムス」にやられてからは、当時発売済みであったアルバムでまだ聴いたことのないアルバムはほぼ全て買いました。ファースト、セカンドそしてニュー・シャトゥーカなどなど。ファーストはメセニーだけでなくジャコ・パスにも驚かされましたし、セカンドではその後のPMG(パット・メセニー・グループ)の原型がそこにありました。また、ソロ名義のニュー・シャトゥーカは彼のルーツがわかったり。ただ、当時の自分には少し理解できない曲もありましたし、アメリカン・ガレージやオフランプの頃に比べて、ギター音の輪郭が細かったり、テクニック的にもまだ未熟な部分であったりといくつかの理由から、この時点はそんなにのめり込んだわけではありませんでした。個人的には相変わらずブルース・フォアマンやベンソン他の王道ジャズギターのコピーばかりやっていました。



ライトでの活動を少し。
秋にはたしか早稲田大学の学園祭で早稲田ハイソサイェティ・オーケストラ(ハイソ)のゲストとして演奏したと思います。同じく三田祭ではハイソをゲストとして呼んでいましたし、共演する機会の多いバンドでした。
ここで印象的だったのは、ライトとしてのビッグバンド演奏ではなく、演奏が終わってからのコンボ形式でのジャム・セッションでした。一曲だけ参加しました。「ブルー・ボッサ」をサンバ風に演奏した時だけです。以前このブログでも紹介したパット・マルティーノの「イクジット」を聴いていたので、決していい演奏ではなかったと思いますが、気持ちよく弾けた気がします。この頃は簡単なスタンダートは自分なりにアドリブ演奏ができる様になっていました。
その時、対バンの早稲田ハイソのギタリストを初めて意識して聴きました。すごくジャジーなプレイで、ハイソの演奏曲でも結構ソロをする機会がある方で、その時点では正直言って、明らか僕の上を行ってましたね。この素晴らしいギタリストKさんの話は、また別の機会に・・・・。
81年も年末ともなると翌82年3月に予定されていたライトのリサイタルのことを少しづつ意識する様な時期となりました。以前も書いたかもしれませんが、リサイタルでは必ず卒業メンバーのプレイをフューチャーした楽曲をやることになっています。何名かの卒業メンバーはいたとは思いますが、僕にとっての関心は卒業予定の一人でもあり、いつもリズム隊のメンバーとしてお世話になっていたピアノの寺さんのことでした。
「フューチャーもの(曲)は一体何をやるのだろう??」
寺さんはどうやらオリジナル曲を書いてるとの噂を耳にしました。