僕の音楽史(181)
9月30日東京を離れて8日のオーストラリア演奏旅行は大きなトラブルや事故もなく終わりました。僕はカミさんと当時3歳の長男を自費で連れて行ったこともあり、台東区の同行者の方々には色々とご面倒かけてしまいましたが、嫌な顔一つ見せずご対応いただきました。大変ありがとうございました。今考えると素晴らしい思い出になりました。

10月8日(金)の夜、成田に着き、なんと翌日は横浜ランンドマークホールでコンペティション(本選)です!

メンバーはどう思っていたかわかりませんが、正直いうと応募したことを後悔していました。何故かというと体力的に非常にキツかった、そして気力も萎えていました。個人的にはあまりに疲れすぎていました。
結論を先に言ってしまうと、本選に進んだ7バンド中で3番目(The Third Prize)を頂きました。言い訳がましくなりますが、浅草や吉祥寺に比べると参加メンバーのレベルも高かったと思います。また、選曲も僕にはハードルが高かったなと思います。

演奏した曲は「フットプリンツ」「Helen Knew R.Y.E (ベース荻原のオリジナル)でしたが、これも後で考えるとどうだったのかなと思います。この日に備えてオーストラリアで何回か演奏していましたが、「フットプリンツ」はどうも苦手でした。一方、荻原さんのオリジナル、ピアノのイントロから始まり、テーマはマイナー、サビでメジャーに変わるといった比較的得意なコード進行で大好きな曲ではありましたが、コンテストでオリジナル曲を演奏するのは少し難しかったのかなとも思いました。
やはり浅草や吉祥寺のコンテストの時のように、「獲りにいく」つもりでないとダメなのだなと感じました。
そしてこのバンドでは「新宿J」でのライブを残すのみとなりました。