僕の音楽史(148)
布川さんがレッスンの時に僕に尋ねます。
「その後どう?バンドやってるの?」
僕は相変わらずバンドを組んではいませんでした。昨年の秋に東工大の学園祭に布川さんがジャズ研にジャム・セッションに連れて行ってくれてましたが、その時のメンバーとは特に連絡先は交わすことなく終わっていました。
「去年学園祭で一緒にやったベーシストなんだけどさ、萩原っていうんだけど、彼なんかいいと思うんだけどね?」
布川さんがしきりに彼のことを勧めてくれます。そして電話番号(当時はまだ携帯もEメールもまだ普及していない時代です)を教えてくれました。
現在の様にメールやラインなどのツールがあれば、アドレスを聞いたその日に気軽に連絡することができるでしょうが、ほとんど面識のない人間にいきなり電話をして「一緒にバンドやりませんか?」と誘うことは結構勇気が必要でした。
布川さんから荻原さんの連絡先を聞いてから、確か何ヶ月かは連絡せずじまいだったと思います。ただ、やはりバンドをやりたい気持ちがどんどん高まっていき、とうとう勇気を持って彼に電話します。
もちろん細かいやり取りは覚えていませんが、一度東工大の部室でリハをやる約束をしました。彼以外のメンバーはお任せすることにしました。
はっきり覚えていることがあります。最初のリハの約束の日時、僕は突然のシステム・トラブルが起きてしまい、仕事をどうしても抜けることができずに約束をすっぽかしてしまうことになってしまいました。携帯などない時代ですから、連絡を入れることもできません。自宅に帰ってから慌てて彼に電話でお詫びを入れました。しょっぱな随分と失礼なことをしでかしてしまったものです。
その後、何ヶ月か先に再度約束をし、東工大ジャズ研部室でのリハーサルが実現しました。
その時のメンバーは武田謙治(g)阿部義徳(p)荻原光徳(b)平井景(ds)の4人でした。
オール・ブルースやステラ、ソフトリーなどスタンダードを約2時間位演奏をしたと思います。現在はその時の録音テープは行方不明なのですが、その後通勤時にずっとウォークマンで聴いていた様に記憶しています。
でも、結局このメンバーでのリハはこれ1回きりに終わりました。荻原君は学業と自己のバンド活動で忙しかったようですし、僕も積極的に声をかけるのもなんか気が引けてしまったのが理由です。
その後、僕は仕事で新しいシステム開発のプロジェクト・メンバーに抜擢され、多忙になってしまい、布川さんのレッスンは継続していたものの気持ちは音楽から仕事の方へ移っていき、次第にバンド活動への意欲は小さくなっていきました。
1989年は音楽的には全く際立ったイベントの記憶はなく、次回から話は1990年と約2年ほど先に進んでいきます。
お楽しみに!
