僕の音楽史(113)
あらかじめお断りしておきますが、これから書くことは結構記憶があいまいで、間違っている部分もあるかもしれません。ライトのOBでこのブログを読まれている方、訂正があれば何なりとおっしゃってくださいね(笑)。
いつの頃か、そしてどういう経緯でかはわからないのですが、僕の所属するライトは「岡本一生」というヴォーカリストと活動を共にすることが多くなりました。どういう方かは存じ上げないのですが、ポッスとジャズをミックスしたような曲だったように思います。曲は彼のオリジナルで歌詞は日本語で歌われるものだったように思います。
僕はこの歌伴がどうもストレスでした。彼の音楽性がどうのこうのってわけではなく、自分の力量の問題で大きなストレスとなりました。彼のオリジナル曲ですから、「手本の演奏」ってのがありません。しかも譜面を読まなくてはならない部分が多かったこともあります。そして、極め付けは彼のマネジャーは確かギタリストで、結構色々な要求をしてきて、これを実現できない自分のもどかしさで結構苦しめられました。確か出雲への演奏旅行も一緒に行った気がしますが、あまり記憶が定かではありませんので、違っているかもしれません。
この出雲への演奏旅行は、確か行きは寝台車で行ったような気がします。そして、その中でこの演奏旅行(ビータ)に参加した僕を含めた3年(E年)4人の中で重要な話し合いが行なわれました。
それは役職(3役)を決める話し合いです。
役職は3つ、コンサート・マスター、バンド・マスター、そしてマネジャーです。E年4人で役職は3人ですので、ひとりは何もやらずに済みます。
コンサート・マスターはもう話し合う余地もなく、バリトン・サックスでC年の時からレギュラーの佐藤に決まりでした。譜面を初見でバリバリ吹く力量で、フルバンドをこよなく愛す彼以外にはありません(笑)。本人はグズグズ言ってましたが、まんざらでも無い感じに僕は感じました(笑)。
マネジャーについても、もうすでにそれっぽい仕事をやっていたこともあって、川島で決まりです。彼はもうすでに諦めている様子でした。
問題のバンド・マスター、これはいわゆる「部長」で、特殊な技量は何も必要ないのですが、行事には何かと壇上に引っ張り上げられたりとなんか面倒くさそうです。このポジションに僕がなるか、もうひとりのアルト奏者の小林がなるか、これがお互い一歩も引かずに揉めました。「一歩も引かず」ってのは、お互いが役につきたがったのではなく、その逆で、二人ともなんとか逃れようとしていたのです(笑)。結局「どっちが学業が暇か?」が決め手となってしまいました。小林は文学部出身、ゼミと教職取得で学業と両立するために色々頑張っていました。一方、僕はどうかと言えば、ゼミにも入らず、授業にも一切出ていないので、24時間オールフリーの状況でした(笑)。
こうして、僕は夏合宿からライトのバンド・マスターをやることになってしまいました。
※下の写真は僕のいた当時のライトではありません。
