僕の音楽史(82)
夏合宿が始まりました。確か苗場のブルーリッジというペンションだったと記憶しています。当時はスキー・ブームまっさかり、大学生は皆、冬になるとスキー担いで苗場に行ったものです。したがって、宿泊した学生たちが夜を遊ぶためのディスコが併設されていたペンションが結構あったようで、シーズンオフの夏場には我々のような音楽団体が合宿する場所として提供していました。
そんなディスコでレギュラー・バンドは朝から晩までずっと練習しています。そして、彼らが練習している時間は我々新入部員は何をやっているかと言うと「写譜」ってやつです。
「写譜」って何かって言うと、アレンジャーから上がってきた鉛筆書きのスコアを、譜面や音符を書くための専用の万年筆みたいな「写譜ペン」で各パートごとに五線紙に書き写す作業です。市販の譜面を使うこともあるのですが、発売されていないものやオリジナルアレンジのものを演奏するためにプロのアレンジャーにお願いしてスコアを書いてもらうこともやっていました。現在ではパソコンの譜面ソフトがあるので、こんな作業もきっとないのでしょうね?!
我々の写譜が終わらなければ、レギュラー・バンドはその曲の練習に取り掛かれないわけで、それこそ毎日新入部員全員(とは言ってももうすでに10人はいない状況でしたが・・・)で分担して、ほとんど毎日徹夜同然で書いていました。僕は正直あまり綺麗に書けませんでしたし、音楽的知識もあまりありませんでしたので、写し間違いも多く、先輩たちからはあまり評判が良くなかったように思います。
そうは言っても、日中は多少の個人練習の時間もあったので、その時は秋山一将さんとジョージ・ベンソンの二人をコピーする時間にあてていました。また、ジュニア・バンドの練習も1時間ぐらいはあったと思います。
この合宿を期に、以前このブログで書いたレギュラー・ピアニストの寺さんがコンサート・マスター(コンマス)になったので、練習の際に自らが演奏することもなく、話す機会もなくなりました。もともと「山野ビッグバンドコンテスト」で「優勝」するための強化合宿なので、相当のプレッシャーだったと思いますが、当時はそんなことは全く考えませんでしたし「教わったり演奏を聴く機会が減ってつまんないな」くらいに感じていました。
合宿も中盤にさしかかった頃、「合宿の時にジュニア・バンドがレギュラー・バンドの前で演奏し、新入部員は必ず曲の中でソロを与えられる」という話を聞きました。
「さーて、困ったぞ」と思いました。当時は謙遜でもなんでもなく、僕はいわゆる「ジャズ・ギター」は全く弾けませんでした。「ロック出身、フュージョンで挫折」って状態ですから、フルバンドの中で、しかもエフェクターを使わず生音でソロを弾くなんて到底無理です。
僕が弾かなくてはいけない曲は「ウェイブ(ジョビン)」でした。誰かギタリストで弾いているやつを参考にしたかったのですが、合宿に来ているので、レコードを買う事も出来ず、自分で考えるしかありませんでした。
この「ウェイブ」の僕のソロにまつわるレギュラー・ピアニスト「寺さん」の一言。言った本人は「酔っぱらっての一言」なので、全く記憶にないと思いますし、この話は今まで誰にも、そして本人にも話したことがありませんが、僕のギタリスト人生の中での「大きな一言」になりました。
その辺の話は次回に書くことにします。
※下写真のKLMS(慶應ライトミュージックソサイエティ)は我々の時代のものではありません。
